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国際的な裁判におけるナチス・ドイツのホロコースト関与者の追及と裁判の過程

ホロコースト

 

国際的な裁判におけるナチス・ドイツホロコースト関与者の追及と裁判の過程

 

ナチス・ドイツホロコーストとは、1933年から1945年にかけて、ナチス・ドイツユダヤ人やロマ、障害者、同性愛者などを組織的に迫害し、強制収容所ガス室などで殺害した大量虐殺のことです。

 

ホロコーストの犠牲者は、約600万人のユダヤ人をはじめ、合計で約1100万人にのぼるとされます。ホロコーストは、人類史上最大の犯罪として、国際社会の強い非難と反省を呼びました。

 

 

第二次世界大戦終結後、ナチス・ドイツホロコースト関与者に対する追及と裁判が始まりました。これらの追及と裁判は、国際的な裁判として行われたものや、各国の裁判所によって行われたものがあります。

 

これらの追及と裁判は、ホロコーストの真実を明らかにし、犯罪者に対する責任を問うとともに、人権や法の支配の尊重を促進するという意義を持ちました。

 

この記事では、国際的な裁判におけるナチス・ドイツホロコースト関与者の追及と裁判の過程について、以下の3つの例を紹介していきます。

 

ニュルンベルク裁判

 

ニュルンベルク裁判とは、1945年から1949年にかけて、ドイツのニュルンベルクで行われた、ナチス・ドイツ戦争犯罪や人道に対する罪に関する一連の裁判のことです。

 

ニュルンベルク裁判は、日本の極東国際軍事裁判東京裁判)と並ぶ二大国際軍事裁判の一つです。ニュルンベルク裁判は、以下の2種類に分けられます。

 

  • 最初の主な裁判(英語:Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT):1945年11月から1946年10月にかけて、ナチス・ドイツの最高指導者や閣僚、軍人、官僚などの24人の被告に対して行われた裁判。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国が共同で裁判を主導し、各国から1人ずつ裁判官と検察官が選ばれた。

    被告は、平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪の3つの罪状で起訴された。判決は、1946年10月に言い渡され、12人に死刑、7人に禁錮刑、3人に無罪が宣告された。死刑判決を受けた被告のうち、11人は1946年10月16日に絞首刑に処された。

    残りの1人は、ヘルマン・ゲーリング元空軍総司令官で、判決の前日に自殺した。

  • それに続く12の裁判(英語:Subsequent Nuremberg Trials, NMT):1946年12月から1949年4月にかけて、ニュルンベルクを占領統治していたアメリカ合衆国によって行われた裁判。医師、裁判官、弁護士、工業家、軍人、SS隊員などの187人の被告に対して行われた裁判。

    被告は、戦争犯罪や人道に対する罪などの罪状で起訴された。判決は、1947年から1949年にかけて言い渡され、37人に死刑、77人に禁錮刑、35人に無罪が宣告された。

    死刑判決を受けた被告のうち、15人は1951年6月に絞首刑に処された。残りの22人は、死刑執行の停止や刑の減刑などの措置がとられた。

ニュルンベルク裁判は、国際的な裁判としては初めて、戦争犯罪や人道に対する罪という概念を用いて、ナチス・ドイツホロコースト関与者に対する責任を問いました。

 

ニュルンベルク裁判は、ホロコーストの証拠や証言を集め、公開することで、世界にその真実を知らしめました。ニュルンベルク裁判は、国際法や国際人権法の発展にも大きな影響を与えました。

 

ニュルンベルク裁判は、国際連合の設立や、ジュネーブ条約の改訂、国際連合人権宣言の採択、国際刑事裁判所の設立などの動きにつながりました。ニュルンベルク裁判は、戦争犯罪や人道に対する罪に対する国際的な司法の先駆けとなりました。

 

エイヒマン裁判

 

エイヒマン裁判とは、1961年から1962年にかけて、イスラエルエルサレムで行われた、ナチス・ドイツホロコースト関与者の一人であるアドルフ・エイヒマンに対する裁判のことです。

 

エイヒマンは、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の中佐で、ユダヤ人の移送や絶滅に関する計画や実行に深く関与していました。エイヒマンは、第二次世界大戦終結後、アメリカの捕虜となりましたが、1946年に脱走し、アルゼンチンに逃亡しました。

 

エイヒマンは、1960年にイスラエルの秘密情報機関モサドによって発見され、誘拐されてイスラエルに連れてこられました。エイヒマンは、イスラエルの裁判所によって、戦争犯罪や人道に対する罪などの15の罪状で起訴されました。

 

裁判は、イスラエル最高裁判所の判事3人が審理し、イスラエルの法律に基づいて行われました。裁判は、テレビやラジオで生中継され、世界中の注目を集めました。裁判では、ホロコーストの生存者や歴史家などの多数の証人が出廷し、ホロコーストの証拠や証言を提供しました。

 

エイヒマンは、自分は命令に従っただけで、ホロコーストに対する個人的な責任はないと主張しました。判決は、1961年12月に言い渡され、エイヒマンは全ての罪状で有罪とされ、死刑判決を受けました。

 

エイヒマンは、1962年5月に絞首刑に処されました。これは、イスラエルで行われた唯一の死刑執行です。

 

エイヒマン裁判は、国際的な裁判としては珍しく、被告が他国の領土から強制的に連行されたことや、裁判が被告の犯した犯罪の現場とは異なる国で行われたことなどについて、法的な議論や批判がありました。

 

しかし、エイヒマン裁判は、ホロコーストの被害者や生存者にとって、正義の実現や記憶の継承にとって重要な意義を持ちました。エイヒマン裁判は、ホロコーストの研究や教育にも大きな影響を与えました。

 

エイヒマン裁判は、ホロコーストの加害者に対する個人的な責任や、権力に服従することの危険性について、世界に警鐘を鳴らす裁判となりました。